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うみべのまち ver.1.2

言語化と、方向付けのためのログ

ブログがつづかない理由

さっき最新記事をちらりとみて、ブログが続かない理由にきづいた。「なんか良いこと書こう」と少なからず思っているからですね。いや、思考の整理にも方向付けにもならない愚痴や不満だけのからっぽな文章を書くよりは、「なんか良いっぽいこと」を書く方がいいのかもしれないけど、わたしの「良いっぽい」というのはモロに他者の視線を気にしている。言い換えれば、思ったことというより「人に読まれてもまあ激しい批判は受けないっぽいと踏んだこと」に調整して書いてる節がある。誰も読んでないのに。それじゃあ発信する意味、文章をつなげていく意味がない。

わたしは手帳や日記にさえ、感じたことを赤裸々に書けない人間です。大事なことであればあるほど書けない、誰かに見られたらという気持ちがどうしても強くこころにある。そのぶんネット上の文章はわたしの顔(からだ)とは結びついていないのでわりとほんとうのことを書くハードルが下がる。

そう、もっと素直に書こう。しかし文体というのは大きいな。文章を打ち込むときはいつも、文体に書かされている気になる。文章に内容なんてなくて、文体しか存在しないのではないかと思えてならない。文体が勝手に文体の行きたい方向へ進んでいき、わたしはいつも置き去りにされた気分になる。けれども”言いたいこと”なんてあっただろうか、欲望が貨幣を求めるのではなくて貨幣が欲望を生み出すように、文体が内容に先行する気がする。文体を鍛錬していきたい。量でしょうか。

 

土地

そういえば、先月の終わり頃、5歳まで住んで居た土地に家族で行った。といっても今住んでいるところから電車で1時間半、車で1時間ほどのところ。大人になった今では行こうと思えばいつでもいける距離だけど、たまに思い出すくらいであの辺りにはずっと行ってなかった。特に用事もないし。

変わった場所ではなく、田舎でも都会でもないどこにでもある住宅街。でも空気がなんだか懐かしい気がしてしまう。5歳のときまで見ていた町の景色。家からあの公園までこんなに近かったっけ?とか、あの神社こんなに狭かったっけ?とか、記憶のなかと現実の縮尺が合わなくて不思議な感じだ。

保育園の送り迎えのときに毎日車で曲がった竹やぶのコーナーの緑が、大幅に減っててすこしせつなくなる。一角に群青した竹やぶから漏れてくる陽のひかりが好きだった。

人間には生まれた土地の水がずっと流れている、というどこかで読んだ言葉を思い出す。感覚的にはわかる気がする。物質としての水というより、自分のなかの深い水脈をめぐっている何かとして。

 

ただ1日を毎日生きただけで、もうこんなとこまで来たんだなあ。いま22歳。たしかにこの地にいたのであろう5歳の時の私。人生はたしかに流れているんだなあと当たり前のことをぼんやり思う。これからもすごいはやさで流れていくんだろう。40歳とか、60歳とかになったときに、今と同じように振り返って22歳のことを思い出すように。

なんだか取り返しのつかないものをこぼしながら、きらめかせながら歩いていくようで、すこし気が遠くなる。振り返ればいつもせつなくていとおしいけど、生とはそういうふうに眺めるものではないとわかってしまったので、自分の体がうごかせることや好きな場所へ行けること、自分の人生を自分が生きられることがうれしいし楽しいなとおもう。せっかくなので、精一杯手足をのばしたりして死ぬまで生きたい。

枕元で

1時間ほど前に帰宅して、めんどくさい化粧落としもすべて終えて今は布団の中にいる。あとは寝るだけだ。なんだかとても疲れた。

眠りに落ちるまでの、なにもせずなにも考えない贅沢な時間が好きだ。意識はうすぼんやりとあるまま、眠りをただ待つことに全身をゆだねているひととき。しかし、くさい。私の髪がくさい。髪からピンクのダウニーの匂いがする。耐え難く不愉快な匂いだ。わたしは芳香剤の香りがとても苦手なのだ。生花、アロマオイルなどの天然香料は好きなのに、人工的な香料が苦手で嫌いだなんて市販の柔軟剤を使っているひとびとにはとても言えない。鼻につく女だと思われて村八分にされてしまう。ここは都会だけど。ダウニー、そう、諸事情があり、わたしは今日バイト先で何度もピンクのダウニーの消臭スプレーを噴射したのだった。バイトの日は大抵こんなんだ。今からシャワーを浴びるのは不可能なので、どうにか我慢して、このまま寝るしかない。吐きそうだ。眠い。上手く纏めたかったのにだめだ眠い寝ます。おやすみなさい

継続

前回記事をアップロードしてから約2ヶ月経っている。

毎晩、もう寝ようとおもって布団に入ると「なにか言語化しなければ」という気持ちが突如わき起こる。しかし布団に抗うこともできず、そのまま毎晩眠りに落ちる日々をこの2ヶ月続けていたので、今日こそは、と思って夕方の時間にはてなブログを開いてみた。

書きたいことがあるわけでもないのに。何を書けばいいんだろう。

そういえば、昔から何かを続けるということができない。

習い事、学童、部活、アルバイト、大学(義務教育は完走した)。振り返ってみると、長年続けてる趣味とかは一つもない。生きていることくらいだ。自分がつまらない人間に思えてすこし沈鬱になるけど、まあいいや。つらい思春期を生き抜くためにわたしはなんでも「まあいいか」と思う技を身につけたのであった。それが良いか悪いかはわからんし、どっちでもよい。わたしにとっては。

そういえば、この間「5年ダイアリー」なるものをいただいた。貰った当初は割と1日1回開くようにしていたけれど最近完全に失念していた代物だ。しかし何を書けばいいんだよ。長くて、一瞬のように過ぎ去っていくであろうこれからの5年間のことをおもうと空恐ろしくなる。恐ろしいぞ。

文章にするなら、1日を振り返るよりは明日どうする、とかこれからどうしたい、というのを書くほうが人生に有効だとおもうので、あの赤いダイアリーをそうやって使うべき。べきなのだけど。なんて不快な作業だ。不快で、人生にとって重要な意味のある作業だ。未来を考えることから逃げないほうがいい、というか逃げない自分でいたいのに。いたい。なるべく未来を祝福したい。

 

*久々にエッセイとかを読んでいる。さっきまで穂村弘の『世界音痴』を読んでいた。なんかこれ前にも読んだ気がするな。併読で東直子さんの『七つ水、二つ窓』も読んでいる。

10/11

なんか夜になるとくしゃみが止まらない。7連発くらい出る。秋の花粉症? ティッシュで鼻かみすぎて鼻が痛い。鼻なくなりそう。

 

最近思うのは、「悩むべき問題」ってなくて、考える問題と考えても決まらない問題があるだけだなってこと。考えて、結論は出てるけど諸々の理由でやりたくないことというのもありますが、その結論が正しいことが自明ならそれは自分を鼓舞してがんばるしかないですね、それが苦手なんですが…。

 

あと、自分を好きになる努力ってやっぱするべきだなと思っている。「するべき」という言い方になるのはわたしの腰が重い(エンジンがかかりにくい)人間だから。見たい景色をみるためには道のりをあるくのが面倒でも、あるけば何かしら今とは違うものが見えるとわかっているなら一歩めは強制的にでも踏み出したほうがいいんだよね〜って。自分を好きになるための努力が苦役ということではなく、それ自体は楽しいことなんだけど、最初の一歩が怖いとか億劫とかでためらってるなら今すぐするべきだ、っていうねー。わかってるけどなかなかできてない。わかってるはずなのに。くそ。怪我なんてしないのに。

 

わりと2年前くらいは自分のなかで「ありのままを受け入れよう」ブームがきていたんだけど、やっぱそれはもうつまんないなというか、それじゃだめじゃんって感じが今はする。当時は根本のところの(存在レベルでの)自己肯定がしたかったんだろうね。ていうか何もしないような状態でありのままの自分が発現するわけないよね。進むなかでこれはちがうとか、これだとか感じていくものなんだとおもう。だからやっぱり動かないといけない。たのしみながら。

 

頑張ってる自分のこをと好きになりたいなあ。頑張ってる自分をみてみたい。頑張ってるっていうのは我慢してやりたくないことをやるということではなくて、面倒だったり失敗するかもでこわくてもやりたいことをやるということ。安易な自己啓発みたいなのはいちっばん嫌いなんだけど、最近そうだな。性格がひねくれてるので正面から向き合ってこなかったけど、一周回って正面から堂々と手を打っていきたい感じがしてる。できるか?したいな。したい。

ろぐ

長文を書くのってなんでこんなに苦手なんだろう。文章に限らず、思ったことを述べるのが昔から苦手だ。練習のためにあたらしくぶろぐをつくった。誰のことも気にしないで思ったことを書く。思ったことを書くぞ!