うみべのまち ver.1.2

言語化と、方向付けのためのログ

背中

あなたのことが好き。と何回思ったことがあるだろう?

わたしは誰のことも好きにならないし、この世にいる誰のことも好き。

誇張表現だが嘘ではない。

自分の、'自分の外部のものに対する執着心'を自覚するのが耐えがたいほど不快なことに気づいた。わたしは自分の外部の何にも執着していないし、これからもしないし、したくてもできない。安易な錯覚もできない。中空であることで保ってきたから。それはただ、わたしにとって一番信じられるものが神様でもお金でもイデオロギーでもなくて空洞だったというだけ。

 

執着することは愛ではない。

また、人は他者(人間に限らず外部のものや要素のこと)を所有することはできない。認めることが愛だと思う。存在を認めること、自分の外部の(基本的に理解できない)存在だと認めて尊重すること。その人の価値観を尊重して眼差すこと。認めることや尊重することは賛同することではない。もちろん支配することも愛ではない。

(ちなみに、万が一誤読されたら嫌だから書いておくと、ここでいう愛とは性愛やロマンチックラブイデオロギーにおける矮小化された愛(と呼ばれているもの)のことではありません。)

 

世の中を見渡すと(見渡さなくても日々出会う)、勘違いして悲しんでる人が驚くほどおおいなあと思ってしまう。みんな自分をもっと自由にしたらいいのにと思う。(もちろんひとつのただしさなんてないから、わたしにとって勘違いに見えるというだけだが。)他者と関わって生きながらなるべく幸せになるためには、他者を他者として(支配することも、支配されることもできないものとして)受け入れることから始めるしかないんだと思う。そしてその考え方は自由につながることだとおもう。

先々週の私へ(アンサー)

・ワニ飼っていてもOLは無理だったと思う

もっと続くとおもってた。嫌々ながら続けてるんだと思ってた。

実際はその生活に耐えられなかった。たった数日で! これが一生つづくわけじゃないにしても数年間、または当面のあいだこの生活を送るってことにとても耐えられなかった。生活の中身じゃなくて、生活の方向の耐えられなさである。耐えてもそれは目をつぶるだけのことで、先には何もないとしか感じられなかった。それが正しいのか正しくないのかなんてわからない。もういまある幸せのことしか信じられない。いまの幸せ、というのは、未来のことを信じられている今、という範囲まで含む。’今信じることができない(賛同することができない)未来’のために今を我慢して生きるということが私にはどうしてもできない。でも、’今信じる未来のため’だったら、信じてる間は何年でも我慢できたと思う。

叶わなくても届かなくても、今のわたしが信じられる方向を向いて生きたい。もう他人にどう思われるとか、どうでもよくなってきた(本当にそうだったらいいのに)。わたしがただしいとおもうことがしたい。一般的には怠け者だと思われるだろうけど正直ラクがしたいわけじゃない(でも、死ぬまで楽をして生きたい、ということを第一目標にして生きるのだって全然ありだと思う)。いややっぱりただの怠け者です。

世間で良しとされるものを盲目的に信じることが残念ながらわたしにはできないのだった。お金になる行為にしか社会が価値を付与しないのなら、わたしやわたしの生活は社会にとっては無価値で全然いい。わたしが大事だと思うことを大事にして生きたいよ。誰かの価値観通りに生きても、だれも褒めてはくれないし、それでつらくても誰も責任とってくれないってもう知ってしまった。生きる。

ただ、生活における甘えや惰性や慣性の法則はできるかぎり打破していかないと人生がこのままおわってしまう。自分で自分のお尻を叩かないといけない。

@〜@

今かなしかった。とても単純なことを書こうと思ったのに書けなかった。複雑なことはもっと書けない。うう〜ん。

匿名。固有名。だれかになりきってかこうかな? そういえば、私は昔から”なりたい人”っていないな。なりたいもの、はたくさんあるけど。風、光、石(できればつるつる)、木、川、などです。あと、野良猫になったら夜の道路を素早く横切るやつは絶対したい。

 

おととい読みたい本を買ったけど、今日までで全然読み進められていない。気持ちが落ち着かなくて。

本を読むことは、黙って聞くことに似ていると思う。誰かの言葉を、賛否や自分の立場は一旦置いてとりあえず聞き続けてみるような。もちろん、読書は(広い意味での)楽しみのためなのだから、気に入らなければそこでやめたらいいのだけど。

読書をすんなりできるかで、こころの安定度を測れる気がする。私の場合。

考え事や、曖昧な不安や焦燥があるとあんまり落ち着いて読めないよね。読書家の人はいつでも大抵読めるんだろうし、人生における読書量とも関連があるんだろうなあ。どうでもいいけど。。

 

うん、うすうす気づいている’片付ければならないこと’を、できるだけ片付けよう。。。。。

ちなみに、今日家のまえの道路をヘッドライトに照らされながら横切ったのは黒い猫だった。黒は綺麗。

今週思っていたこと

・OLってワニ飼わなくてもやってけるものですか?

・私と一緒にいて楽しいの?

・わからない

・わからない

・わからない

Apple Musicは想像以上の楽曲数だった

・わからない

・服を選ぶのも買うのも着るのもめんどくさい

・なんて連絡したらいいのかわからないからずっとしないでいる

・今週の火曜日からは毎朝五時くらいにおきたい 満員電車乗りたくないから

・とめて とめて 進化を止めて〜 とめて とめて 止めないで

 

黒幕Pの黒縁眼鏡

この前初めて聞いたラジオ ”文化系トークラジオLife” のいつかの回(放送後記?)で黒幕Pが言っていた、「イベントとか仕事とか後から思い出した時に楽しむため、思い出づくりのために全部やってんだよなー」というのがすごいわかった。正確にいうと、前までわたしもそうだった。

 

わたしが高校生のころ、スクールバッグにデカめのクマのぬいぐるみを一時期つけていたこととか、わりと派手な色のカーディガンを着ていたこととか、授業さぼって友だちとアイス買いに行って食べたり、または一人でさぼってぶらぶらしてたりしたのは、そのときそうしたかった、のと同じくらいかそれ以上に「いつかこうしたこと思い出すんだろうな」って気持ちがあったから。遠い気持ちになる。(想像上の)未来から今を照射すると、今はめちゃくちゃ煌めいて儚くて一回きりの美しいものに感じられるから。

 

垂直的な時間モデルのなかで、”もう二度と戻らない時間”というのはどうしたって甘美に感じられる。退屈と一瞬ときらめき。でもわたしは最近そういうものを、以前のように胸が千切れそうになるほどかけがえのないものだとは思わなくなった。ツリー的な価値観。恥ずかしい言葉遣いであえて言い切ると、ドゥルーズ的に世界を捉えるようになってしまったので、もうリゾーム的な考え方を支持せざるをえない、切なさや苦しさによる照射ではないきらめきや喜びや生。そっちのほうが強度があるし素敵だと思う。

(ちなみに、わたしのドゥルーズ理解はもちろんただしくないかもしれない。どんな人も、どんな思想についてもそれを「わかって」いるか否かなんて、厳密な意味では作者以外の誰にも言えない。一般的に・みんなにとってのドゥルーズとはもしかしたら違うかもしれないけど、今の所”わたしの”ドゥルーズはそういう感じで理解しています、という、ここまで保身のためだけの文章です。(でもぶっちゃけそんなに間違ってないという無根拠で確固とした実感がわりとある))

 

だから今は、垂直じゃなくて(これなんていうんだっけ?、リニア的?わからん。まあいいや。)パラレルというかリゾームな感覚で生きているんだけど、だいぶいいですよ。以前ほどシリアス(ふうのカオをして)憂鬱に浸ることがまじでほぼなくなりました。(もちろんそれが悪いことだなんて思わないしそれだって生の享受だ。)以前は、「憂鬱に沈まなくなったら生きやすいけどさみしいだろうなー」って思ってた。結果、べつにさみしくないです。たのしいです。さみしいときももちろんあるけどね。人生のいっちばんのベースが生の肯定になったので。かなしいことはもちろん生活のなかに発生するけど、生の肯定のうえで悲しい、というかんじなので、いいです。

わざわざ(想像上の)未来から今を照射しなくても、今はきらめいていたりきらめいていなかったりして、そのこと自体がほんとはささやかにきらめいていて、祝福的だとわたしには感じられる、って話でした。

 

まあ、今も無機物になりたい欲みたいなものはあるけど、だいぶさらっとした欲求です。”わたし”が自死したい、みたいなのじゃなくて、単に有機物だから無機物になってみたいな程度の欲求で、ウエッティじゃないので疲れないし、楽です。

ブログがつづかない理由

さっき最新記事をちらりとみて、ブログが続かない理由にきづいた。「なんか良いこと書こう」と少なからず思っているからですね。いや、思考の整理にも方向付けにもならない愚痴や不満だけのからっぽな文章を書くよりは、「なんか良いっぽいこと」を書く方がいいのかもしれないけど、わたしの「良いっぽい」というのはモロに他者の視線を気にしている。言い換えれば、思ったことというより「人に読まれてもまあ激しい批判は受けないっぽいと踏んだこと」に調整して書いてる節がある。誰も読んでないのに。それじゃあ発信する意味、文章をつなげていく意味がない。

わたしは手帳や日記にさえ、感じたことを赤裸々に書けない人間です。大事なことであればあるほど書けない、誰かに見られたらという気持ちがどうしても強くこころにある。そのぶんネット上の文章はわたしの顔(からだ)とは結びついていないのでわりとほんとうのことを書くハードルが下がる。

そう、もっと素直に書こう。しかし文体というのは大きいな。文章を打ち込むときはいつも、文体に書かされている気になる。文章に内容なんてなくて、文体しか存在しないのではないかと思えてならない。文体が勝手に文体の行きたい方向へ進んでいき、わたしはいつも置き去りにされた気分になる。けれども”言いたいこと”なんてあっただろうか、欲望が貨幣を求めるのではなくて貨幣が欲望を生み出すように、文体が内容に先行する気がする。文体を鍛錬していきたい。量でしょうか。

 

土地

そういえば、先月の終わり頃、5歳まで住んで居た土地に家族で行った。といっても今住んでいるところから電車で1時間半、車で1時間ほどのところ。大人になった今では行こうと思えばいつでもいける距離だけど、たまに思い出すくらいであの辺りにはずっと行ってなかった。特に用事もないし。

変わった場所ではなく、田舎でも都会でもないどこにでもある住宅街。でも空気がなんだか懐かしい気がしてしまう。5歳のときまで見ていた町の景色。家からあの公園までこんなに近かったっけ?とか、あの神社こんなに狭かったっけ?とか、記憶のなかと現実の縮尺が合わなくて不思議な感じだ。

保育園の送り迎えのときに毎日車で曲がった竹やぶのコーナーの緑が、大幅に減っててすこしせつなくなる。一角に群青した竹やぶから漏れてくる陽のひかりが好きだった。

人間には生まれた土地の水がずっと流れている、というどこかで読んだ言葉を思い出す。感覚的にはわかる気がする。物質としての水というより、自分のなかの深い水脈をめぐっている何かとして。

 

ただ1日を毎日生きただけで、もうこんなとこまで来たんだなあ。いま22歳。たしかにこの地にいたのであろう5歳の時の私。人生はたしかに流れているんだなあと当たり前のことをぼんやり思う。これからもすごいはやさで流れていくんだろう。40歳とか、60歳とかになったときに、今と同じように振り返って22歳のことを思い出すように。

なんだか取り返しのつかないものをこぼしながら、きらめかせながら歩いていくようで、すこし気が遠くなる。振り返ればいつもせつなくていとおしいけど、生とはそういうふうに眺めるものではないとわかってしまったので、自分の体がうごかせることや好きな場所へ行けること、自分の人生を自分が生きられることがうれしいし楽しいなとおもう。せっかくなので、精一杯手足をのばしたりして死ぬまで生きたい。