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ああどうしてわたしは。 わたしは?
壁際の小さなガラステーブルに置かれたピンクのカーネーションの数輪が茶色く崩れている。あの花はたしか一週間ほど前から飾ってある。数日でボロボロになってしまうお花も多いので、カーネーションは結構持つほうみたいだ。淡くやさしい色。
嘘ではなくて消えやすく頼りないほんとう。
今日は母の誕生日だったので、朝起きておめでとうと言って、お昼頃にケーキを買いに行って崩れないように気をつけて持って帰ってきた(気をぬくと物を落とす)。プレゼントは一緒に買いに行くよてい。誕生日後になってしまうけど。
タルトの気分、というのでキルフェボンのタルト。いちご・ラズベリー・ブルーベリー・ブラックカラントなどの赤色が綺麗。丁寧でぴかぴかのケーキって、なんだか特別な日じゃないと食べてはいけないものな気がする。実際だれかの誕生日くらい。でもそんな規則はないので、なんでもない日にもふつうに買えるものなのだった。そういうことって多くないですか。
高校生の頃はよく「ショートケーキの上のいちごのような生活がしたい」とわりと本気で思っていた。いまとなってはショートケーキの上のいちごのような生活が、どんなだかあまりはっきりと想像できない。5年前くらいのわたしよ。どんなですか。でもわりと今みたいな生活のことかもしれない。
最近は、完全に自分ひとりで衣食住をチューニング(このことばは『新しい地図の見つけ方』から)したらどういうものになるのか、こわいものみたさで興味がある。堕落していくのか、意外とやれるのか。この他人事感。ケーキの上のいちごはどちらかというと最後に食べる派。
MY NAME IS
考えていることや考えているふりをしている色々を、はてなブログの編集画面上で文字にしていったら気持ちがすっきりした。気がする。下書きを数日経って見返すと、違うなあ〜と思う部分があるのは不思議だけどそれはそれで。
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長い文章をかいてると自分で自分の文章のなかで迷い始めてしまう。’本当’を探り当てようとするとどんどん離れていくきがするし、遊びとして文章を書くのがちょうどいいのかもしれない。どれだけふざけても、その人なりのふざけかたになってしまうものだし。
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一番つよく思っているのは、いろんな大事なことに対してめんどうくさがらずに、向き合うことから始めないとなあということです。思っては、いるんです・・・・・・。
「よくわからない」
よくわからない、とよく思う。人生において生活において。社会や誰かのことではなく(それらはまずハナからわかり得なくて当然なものだから)、(もしくは私が内向きなつまらない人間だからか)自分のことほどよくわからない、と思う。わたしはほとんどいつも自分の欲求、何がしたいのか、どこへ行きたいのか、とかがぼんやりしている。なのでとりあえずなにかをしたりどこかへ行ってみてから、ああこれは割と好きなんだなとかこれじゃないんだなとわかる。した結果、好きでも嫌いでもないな(よくわからない)と思うことも多い。
気がする。
が、「よくわからない」という気持ちは、自分の人生を引き受けたくない気持ちなのかもしれない。「よくわからないままでいたい」。認めたくない、転びたくない、マイクを持ちたくない。醜いかもしれない。醜くても最低限、そんなくだらない保身で人を傷つけることだけはしないようにしたいと思う。心の平穏を保つために自分に対して「よくわからない」を昔から使いすぎてきたのかもしれないけど、よくわからない。
よくわからなくてもいいんじゃないかと思ってしまう。結論はいつも[仮]でしかなくて再検討が永遠に続く。
日本語がわからなくなりたいです。
背中
あなたのことが好き。と何回思ったことがあるだろう?
わたしは誰のことも好きにならないし、この世にいる誰のことも好き。
誇張表現だが嘘ではない。
自分の、'自分の外部のものに対する執着心'を自覚するのが耐えがたいほど不快なことに気づいた。わたしは自分の外部の何にも執着していないし、これからもしないし、したくてもできない。安易な錯覚もできない。中空であることで保ってきたから。それはただ、わたしにとって一番信じられるものが神様でもお金でもイデオロギーでもなくて空洞だったというだけ。
執着することは愛ではない。
また、人は他者(人間に限らず外部のものや要素のこと)を所有することはできない。認めることが愛だと思う。存在を認めること、自分の外部の(基本的に理解できない)存在だと認めて尊重すること。その人の価値観を尊重して眼差すこと。認めることや尊重することは賛同することではない。もちろん支配することも愛ではない。
(ちなみに、万が一誤読されたら嫌だから書いておくと、ここでいう愛とは性愛やロマンチックラブイデオロギーにおける矮小化された愛(と呼ばれているもの)のことではありません。)
世の中を見渡すと(見渡さなくても日々出会う)、勘違いして悲しんでる人が驚くほどおおいなあと思ってしまう。みんな自分をもっと自由にしたらいいのにと思う。(もちろんひとつのただしさなんてないから、わたしにとって勘違いに見えるというだけだが。)他者と関わって生きながらなるべく幸せになるためには、他者を他者として(支配することも、支配されることもできないものとして)受け入れることから始めるしかないんだと思う。そしてその考え方は自由につながることだとおもう。
先々週の私へ(アンサー)
・ワニ飼っていてもOLは無理だったと思う
もっと続くとおもってた。嫌々ながら続けてるんだと思ってた。
実際はその生活に耐えられなかった。たった数日で! これが一生つづくわけじゃないにしても数年間、または当面のあいだこの生活を送るってことにとても耐えられなかった。生活の中身じゃなくて、生活の方向の耐えられなさである。耐えてもそれは目をつぶるだけのことで、先には何もないとしか感じられなかった。それが正しいのか正しくないのかなんてわからない。もういまある幸せのことしか信じられない。いまの幸せ、というのは、未来のことを信じられている今、という範囲まで含む。’今信じることができない(賛同することができない)未来’のために今を我慢して生きるということが私にはどうしてもできない。でも、’今信じる未来のため’だったら、信じてる間は何年でも我慢できたと思う。
叶わなくても届かなくても、今のわたしが信じられる方向を向いて生きたい。もう他人にどう思われるとか、どうでもよくなってきた(本当にそうだったらいいのに)。わたしがただしいとおもうことがしたい。一般的には怠け者だと思われるだろうけど正直ラクがしたいわけじゃない(でも、死ぬまで楽をして生きたい、ということを第一目標にして生きるのだって全然ありだと思う)。いややっぱりただの怠け者です。
世間で良しとされるものを盲目的に信じることが残念ながらわたしにはできないのだった。お金になる行為にしか社会が価値を付与しないのなら、わたしやわたしの生活は社会にとっては無価値で全然いい。わたしが大事だと思うことを大事にして生きたいよ。誰かの価値観通りに生きても、だれも褒めてはくれないし、それでつらくても誰も責任とってくれないってもう知ってしまった。生きる。
ただ、生活における甘えや惰性や慣性の法則はできるかぎり打破していかないと人生がこのままおわってしまう。自分で自分のお尻を叩かないといけない。
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今かなしかった。とても単純なことを書こうと思ったのに書けなかった。複雑なことはもっと書けない。うう〜ん。
匿名。固有名。だれかになりきってかこうかな? そういえば、私は昔から”なりたい人”っていないな。なりたいもの、はたくさんあるけど。風、光、石(できればつるつる)、木、川、などです。あと、野良猫になったら夜の道路を素早く横切るやつは絶対したい。
おととい読みたい本を買ったけど、今日までで全然読み進められていない。気持ちが落ち着かなくて。
本を読むことは、黙って聞くことに似ていると思う。誰かの言葉を、賛否や自分の立場は一旦置いてとりあえず聞き続けてみるような。もちろん、読書は(広い意味での)楽しみのためなのだから、気に入らなければそこでやめたらいいのだけど。
読書をすんなりできるかで、こころの安定度を測れる気がする。私の場合。
考え事や、曖昧な不安や焦燥があるとあんまり落ち着いて読めないよね。読書家の人はいつでも大抵読めるんだろうし、人生における読書量とも関連があるんだろうなあ。どうでもいいけど。。
うん、うすうす気づいている’片付ければならないこと’を、できるだけ片付けよう。。。。。
ちなみに、今日家のまえの道路をヘッドライトに照らされながら横切ったのは黒い猫だった。黒は綺麗。