うみべのまち ver.1.2

言語化と、方向付けのためのログ

黒幕Pの黒縁眼鏡

この前初めて聞いたラジオ ”文化系トークラジオLife” のいつかの回(放送後記?)で黒幕Pが言っていた、「イベントとか仕事とか後から思い出した時に楽しむため、思い出づくりのために全部やってんだよなー」というのがすごいわかった。正確にいうと、前までわたしもそうだった。

 

わたしが高校生のころ、スクールバッグにデカめのクマのぬいぐるみを一時期つけていたこととか、わりと派手な色のカーディガンを着ていたこととか、授業さぼって友だちとアイス買いに行って食べたり、または一人でさぼってぶらぶらしてたりしたのは、そのときそうしたかった、のと同じくらいかそれ以上に「いつかこうしたこと思い出すんだろうな」って気持ちがあったから。遠い気持ちになる。(想像上の)未来から今を照射すると、今はめちゃくちゃ煌めいて儚くて一回きりの美しいものに感じられるから。

 

垂直的な時間モデルのなかで、”もう二度と戻らない時間”というのはどうしたって甘美に感じられる。退屈と一瞬ときらめき。でもわたしは最近そういうものを、以前のように胸が千切れそうになるほどかけがえのないものだとは思わなくなった。ツリー的な価値観。恥ずかしい言葉遣いであえて言い切ると、ドゥルーズ的に世界を捉えるようになってしまったので、もうリゾーム的な考え方を支持せざるをえない、切なさや苦しさによる照射ではないきらめきや喜びや生。そっちのほうが強度があるし素敵だと思う。

(ちなみに、わたしのドゥルーズ理解はもちろんただしくないかもしれない。どんな人も、どんな思想についてもそれを「わかって」いるか否かなんて、厳密な意味では作者以外の誰にも言えない。一般的に・みんなにとってのドゥルーズとはもしかしたら違うかもしれないけど、今の所”わたしの”ドゥルーズはそういう感じで理解しています、という、ここまで保身のためだけの文章です。(でもぶっちゃけそんなに間違ってないという無根拠で確固とした実感がわりとある))

 

だから今は、垂直じゃなくて(これなんていうんだっけ?、リニア的?わからん。まあいいや。)パラレルというかリゾームな感覚で生きているんだけど、だいぶいいですよ。以前ほどシリアス(ふうのカオをして)憂鬱に浸ることがまじでほぼなくなりました。(もちろんそれが悪いことだなんて思わないしそれだって生の享受だ。)以前は、「憂鬱に沈まなくなったら生きやすいけどさみしいだろうなー」って思ってた。結果、べつにさみしくないです。たのしいです。さみしいときももちろんあるけどね。人生のいっちばんのベースが生の肯定になったので。かなしいことはもちろん生活のなかに発生するけど、生の肯定のうえで悲しい、というかんじなので、いいです。

わざわざ(想像上の)未来から今を照射しなくても、今はきらめいていたりきらめいていなかったりして、そのこと自体がほんとはささやかにきらめいていて、祝福的だとわたしには感じられる、って話でした。

 

まあ、今も無機物になりたい欲みたいなものはあるけど、だいぶさらっとした欲求です。”わたし”が自死したい、みたいなのじゃなくて、単に有機物だから無機物になってみたいな程度の欲求で、ウエッティじゃないので疲れないし、楽です。