うみべのまち ver.1.2

言語化と、方向付けのためのログ

背中

あなたのことが好き。と何回思ったことがあるだろう?

わたしは誰のことも好きにならないし、この世にいる誰のことも好き。

誇張表現だが嘘ではない。

自分の、'自分の外部のものに対する執着心'を自覚するのが耐えがたいほど不快なことに気づいた。わたしは自分の外部の何にも執着していないし、これからもしないし、したくてもできない。安易な錯覚もできない。中空であることで保ってきたから。それはただ、わたしにとって一番信じられるものが神様でもお金でもイデオロギーでもなくて空洞だったというだけ。

 

執着することは愛ではない。

また、人は他者(人間に限らず外部のものや要素のこと)を所有することはできない。認めることが愛だと思う。存在を認めること、自分の外部の(基本的に理解できない)存在だと認めて尊重すること。その人の価値観を尊重して眼差すこと。認めることや尊重することは賛同することではない。もちろん支配することも愛ではない。

(ちなみに、万が一誤読されたら嫌だから書いておくと、ここでいう愛とは性愛やロマンチックラブイデオロギーにおける矮小化された愛(と呼ばれているもの)のことではありません。)

 

世の中を見渡すと(見渡さなくても日々出会う)、勘違いして悲しんでる人が驚くほどおおいなあと思ってしまう。みんな自分をもっと自由にしたらいいのにと思う。(もちろんひとつのただしさなんてないから、わたしにとって勘違いに見えるというだけだが。)他者と関わって生きながらなるべく幸せになるためには、他者を他者として(支配することも、支配されることもできないものとして)受け入れることから始めるしかないんだと思う。そしてその考え方は自由につながることだとおもう。