うみべのまち ver.1.2

言語化と、方向付けのためのログ

20180315

平日の8時前、朝の光を窓越しに受けながら、電車にゆられる。長椅子には眠そうな人、新聞を読む人、隣にもたれかかって寝ている人。私がいつも乗る上り電車は、都内の沿線に比べたら満員とは呼べない程度の混雑で、ほどほどのうっとおしさと、まどろみと、ひかりが曖昧に溶け合った朝の空気を都会まで運んでいく。

ガラスの向こうの景色をぼおっと眺める。車窓の左へ流れていくマンションの、いくつもの窓。民家。ゴミ捨て場。ささやかな公園。建設途中の工事現場。わたしが知ることはないだろういくつもの生活たちのことをうっすらと感じとろうとする。古そうな小学校。とプール。お寺。空き地。トンネルでは暗転した窓に座っているひとが見ているiPadの画面が映り込む。このまえ写り込んでいたのはエロ画像だったけど、今日はTwitterのタイムラインだった。

 

人生の広がり。今ここにないもの、今の私が想像できないものとも、過去/未来(厳密には現在も)においては可能性として何の序列もなくつながっていること。を理屈でなく体感すること。

今日大好きなこの曲が明日にはそうでなくなる可能性(と同様にその逆のことが起こりうる可能性)のことが、前まではさみしくも思ったけど、今はそれもたのしくてうれしいとおもう。いろんなことに鈍くなったと言われればそうだけど、わたしは自分が(広義として)しあわせであればたいていはそれでいい。

 

・お休みの日にすきな音楽を流しながら、左手でスパークリングワインと、チーズ(パルミジャーノ)やスパイシーグリンピース(スナック菓子)を交互に掴み、右手でmac book proのキーボードを叩きこの文字を打っている。これもたのしいことのひとつだな。

 

・入ってから半年以上たつ会社までの通勤路で目にする景色で、まいあさ、みたことのないものをみる観光客みたいな気持ちになってしまう。ということと、わたしが全然会社のひとたちに興味がないのは関係があるんじゃないか、と思いながら冷蔵庫から卵を取り出して、溶いて、納豆を入れてフライパンで焼いた。ゔぁんぱいあ・リスペクト。庭に出た犬がなかなかかえってこなくて部屋に夜の空気が満ちてくる。

 

人生どうしたらいいんだろうという気持ちは、たぶん物心ついたときから常にあって、忘れている以外のときはずっと思っている。

どうしたらいいんだろう。

スパークリングのボトルを、ストッパーでシュコシュコして空気をぬく。エン転職をみる。わたしはわりといつもしあわせだとおもう。傲慢なので、自分と、自分の周りにいるひとのおかげだとおもう。あしたは2018年3月16日、金曜日です。

 

20180129

あけています

あけましておめでとうございます

 

そして早くも1/12が終わろうとしています

恐ろしいスピードです

自宅のノートパソコンを1億年ぶりにひらきました

この調子だと次にひらいたときにはHatena Blogのサービスが終わっているかもしれません

あ、もしかして、すべては気がつけば過ぎ去っていくもので、人生もこんなふうにあっというまに、あっ

 

フルタイム労働していて感情の画素数が低下した気がしています

日々発生する面倒な自分の感情をみつめる余力がなくて うれしいことも丸のみしてしまっているような

消化できてないままのものを常にたくさん抱えて歩いている感じがします

でもこれまでもこんな感じだった気もする

フルタイム労働自体というより、いろんなことが上手にこなせない自分にフラストレーションを感じます

自由な時間の多寡と関係なく心に余裕を持った状態でいるってどうしたら上手にできるんだろう。

 

ひさびさにブログかいたらかけばかくほどどうでもいいことしかかけなくて、もやもやしたまま寝ることになりました ブログがきらいになりそうです

公開しないでおこうとおもったけど、そうするとわたしは一体この貴重な小一時間何を・・・・となるので、もういいです

すべてのハードルを下げる。

 

明日は、さくら水産の床に落としてバキバキのiphone 6とさよならしてiphone 8か7を迎えに行くのが目標です

おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

 

20171007

つめたい雨が降った翌日の金木犀の香り。秋晴れが好き。なんでかわからないけど、この時期の気候は小さい頃にみてた世界の感覚を一瞬だけ思い出すから。夏が終わって秋が、気づけば今年もきていること。

知らない街をあるくのも好き。散歩が好き。何も考えずにひとりでする散歩以外はぜんぜん散歩じゃないと思ってたけど、相手によるらしい。

 

なんか気持ちがゆるやかに安定している。安定していてすこし不安になるくらい(矛盾だ)。大丈夫か。不安定をアイデンティティとしたつもりはもちろんないんだけど。

生活をしています。

そういえば最近は週に5日も労働というものをしております。なるほどとおもっております。労働をしながら労働以外の生活を上手にできるようになりたいけど、ならなくてもいい。ひとに甘やかされてるのに自分でも自分を甘やかしております。

でも、ほんとうにおもうのは、みんな自分で自分に(表面的なことじゃなくてなるべく本質的な部分で)優しく生きてほしい、何の役にも立たないのに自責的/自罰的になるのが癖になってしまっている人はおおい。みなさん、わたしにやさしく接するために自分にやさしく生きてください。以上です。

20170731

7がつは今日で終わりらしいです。なんと。

「夏がきますね」という趣旨の記事がずっと下書きフォルダに放置されているあいだに、夏は私の生活をどんどん通り過ぎていっているらしい。来月も今月以上に暑い日がつづくのだろう。

 

暴力的な日差しや熱気はとても不快だけど、その不快さゆえにフィジカルを実感せざるをえず、アトラクション的なたのしさがあるなと思う。しかしインドでは暑さで人が死ぬ。

その土地にその時間に生きているという身体的な実感。ごくごく当たり前のことを言いますが、人間はその頭でどんなことを考えていても現代社会特有の悩みとかを抱えていても、常に物理的な環境におおきく依存して生きていますね。当たり前だった。

かみさまは炎天下のなかで汗だくになりながらあついあついと言っている人間たちの姿をいとおしくおもっているのではないかしら。

ということでこの部屋のエアコン設定は27度です。

 

考えてみたら昨年も一昨年の夏もこんな感じの過ごし方をしていた気がする(労働しなさという点で)。大丈夫だろうか(というポーズだけの言葉)。しかしおとといの29日は隅田川の花火大会中継を飲食店のテレビ越しにひとの隣で眺めたりしていて、隅田川の花火自体はなんの思い入れもないのだけどそういうささいな出来事が。雨降ってましたね。生活です。あしたから8がつです。

 

 

 

 

 

 

 

20170718

昨日は浴衣をきて盆踊り大会なるものに行き、踊るお坊さんたちや真上にあがる花火、たくさんの屋台、たくさんのひとびと、などをみました。

セミが鳴いていた。

季節のイベントごとみたいなものとあまり縁がない生活を送っていたけど、ああこういうのってたのしいものなんだな〜と思った。ひとりで行っても、もしくは適当な任意のだれかと一緒に行ってもああいう気持ちにはなれないのだろうから、それがうれしかったし、ありがたいなとおもった。

フィジカルなもの、たとえばこの夏の暑さやその場の空気感などの共有ってしみじみとうれしいんだなーときづいた。ひととやっていくことは、じぶんと向き合うことを必要とするので、めんどうくさがりでめんどくさい性格なわたしはそれらを避けてきていて、しかもまあそれで結構いいかなとおもってきた。そしてそれが間違いだともただしいとも思わない、というか思いたくなくて、ただわたしはそういう人間なんだなという所感。ひねくれていることと(自分に)誠実であることは全然相反しない。というかむしろ逆なんだとおもう。

にっ記。

 

知らないものがたくさんある。稲妻の由来とか(ちなみに科学的な説明としては、肥料となる窒素が1.5倍に増えるかららしいです)。

 

こう、単純に思ったことをそのまま言語化しておくのも、いまのわたしにはかなり大事っぽいのでしていきたい。書くことの機能的な側面。にんげんになるための練習です。

今日も夏でしたので、たぶん明日も夏です。

家のそばのセミはいつ鳴き始めるのだろう。おやすみなさい。

 

茶トラ、白、三毛

今日は道端で野良ねこを3匹みた。

 

わたしはねこをかぶるほうだ。対人において、それこそ3重くらいにはねこをかぶっているのではないかと思う。しかし。みなさん。かぶっているねこをひとつずつはずしていったとして、そこには何が残るとおもいますか。自己なんてあるのでしょうか? わたしはないと思う。というのはさすがに言い過ぎだが。自己なんて、輪郭のない靄のような、角度によって何色にもなり、刻々とかたちの変わるもののように感じる。

そして、ねこのかぶり方や、かぶっている猫の毛の色とか、大きさとかかたちとかはどうしても人それぞれ違いがある。どうしたって出てしまう差異。逆説的に、そここそ自己の立派な一部であるように感じられる。ので、ねこかぶり問題はそんなにたいした問題ではない(と今のところ思っている)。

 

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対人においての悩みとしてはそれよりも、その場しのぎというか、一時的で浅いつながり方しかやってこなかったのを悔やんでいる(悔やんでいるとか言いつつ、時間が戻せてもやり直さないと思うが)。本当にダメなところだと思う(本当にダメなところだと思う)。浅くて薄いつながりしか結んでこなかった理由はきっとひとつしかなくて、そっちのほうが楽だから。でも、いくら臆病で面倒くさがりだからって、我ながら人としてどうなんだと思う気持ちがなくもない。いまや完全にその浅め・薄めのコミュニケーションの型が染み付いてしまってるので、人とちゃんと仲良くなれるのかなあと思ったりする。ちゃんと仲良くなりたいなって人が人生にあらわれたときに、思うこと。そんなに初歩的なところから向き合わないといけない自分が悲しく恥ずかしく、ため息がでてしまう。でないけど。ため息をつくふりをしてみる。ねむい。しかしこの場所にこんなことを書くのはどうなんだろう。

みなさん、そして世界中の野良ねこたち、おやすみなさい。