うみべのまち ver.1.2

言語化と、方向付けのためのログ

20170731

7がつは今日で終わりらしいです。なんと。

「夏がきますね」という趣旨の記事がずっと下書きフォルダに放置されているあいだに、夏は私の生活をどんどん通り過ぎていっているらしい。来月も今月以上に暑い日がつづくのだろう。

 

暴力的な日差しや熱気はとても不快だけど、その不快さゆえにフィジカルを実感せざるをえず、アトラクション的なたのしさがあるなと思う。しかしインドでは暑さで人が死ぬ。

その土地にその時間に生きているという身体的な実感。ごくごく当たり前のことを言いますが、人間はその頭でどんなことを考えていても現代社会特有の悩みとかを抱えていても、常に物理的な環境におおきく依存して生きていますね。当たり前だった。

かみさまは炎天下のなかで汗だくになりながらあついあついと言っている人間たちの姿をいとおしくおもっているのではないかしら。

ということでこの部屋のエアコン設定は27度です。

 

考えてみたら昨年も一昨年の夏もこんな感じの過ごし方をしていた気がする(労働しなさという点で)。大丈夫だろうか(というポーズだけの言葉)。しかしおとといの29日は隅田川の花火大会中継を飲食店のテレビ越しにひとの隣で眺めたりしていて、隅田川の花火自体はなんの思い入れもないのだけどそういうささいな出来事が。雨降ってましたね。生活です。あしたから8がつです。

 

 

 

 

 

 

 

20170718

昨日は浴衣をきて盆踊り大会なるものに行き、踊るお坊さんたちや真上にあがる花火、たくさんの屋台、たくさんのひとびと、などをみました。

セミが鳴いていた。

季節のイベントごとみたいなものとあまり縁がない生活を送っていたけど、ああこういうのってたのしいものなんだな〜と思った。ひとりで行っても、もしくは適当な任意のだれかと一緒に行ってもああいう気持ちにはなれないのだろうから、それがうれしかったし、ありがたいなとおもった。

フィジカルなもの、たとえばこの夏の暑さやその場の空気感などの共有ってしみじみとうれしいんだなーときづいた。ひととやっていくことは、じぶんと向き合うことを必要とするので、めんどうくさがりでめんどくさい性格なわたしはそれらを避けてきていて、しかもまあそれで結構いいかなとおもってきた。そしてそれが間違いだともただしいとも思わない、というか思いたくなくて、ただわたしはそういう人間なんだなという所感。ひねくれていることと(自分に)誠実であることは全然相反しない。というかむしろ逆なんだとおもう。

にっ記。

 

知らないものがたくさんある。稲妻の由来とか(ちなみに科学的な説明としては、肥料となる窒素が1.5倍に増えるかららしいです)。

 

こう、単純に思ったことをそのまま言語化しておくのも、いまのわたしにはかなり大事っぽいのでしていきたい。書くことの機能的な側面。にんげんになるための練習です。

今日も夏でしたので、たぶん明日も夏です。

家のそばのセミはいつ鳴き始めるのだろう。おやすみなさい。

 

茶トラ、白、三毛

今日は道端で野良ねこを3匹みた。

 

わたしはねこをかぶるほうだ。対人において、それこそ3重くらいにはねこをかぶっているのではないかと思う。しかし。みなさん。かぶっているねこをひとつずつはずしていったとして、そこには何が残るとおもいますか。自己なんてあるのでしょうか? わたしはないと思う。というのはさすがに言い過ぎだが。自己なんて、輪郭のない靄のような、角度によって何色にもなり、刻々とかたちの変わるもののように感じる。

そして、ねこのかぶり方や、かぶっている猫の毛の色とか、大きさとかかたちとかはどうしても人それぞれ違いがある。どうしたって出てしまう差異。逆説的に、そここそ自己の立派な一部であるように感じられる。ので、ねこかぶり問題はそんなにたいした問題ではない(と今のところ思っている)。

 

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対人においての悩みとしてはそれよりも、その場しのぎというか、一時的で浅いつながり方しかやってこなかったのを悔やんでいる(悔やんでいるとか言いつつ、時間が戻せてもやり直さないと思うが)。本当にダメなところだと思う(本当にダメなところだと思う)。浅くて薄いつながりしか結んでこなかった理由はきっとひとつしかなくて、そっちのほうが楽だから。でも、いくら臆病で面倒くさがりだからって、我ながら人としてどうなんだと思う気持ちがなくもない。そのくらいのわずかな客観性は残念なことに持ち合わせていた。いまや完全にその浅め・薄めのコミュニケーションの型が染み付いてしまってるので、人とちゃんと仲良くなれるのかなあと思ったりする。ちゃんと仲良くなりたいなって人が人生にあらわれたときに、思うこと。そんなに初歩的なところから向き合わないといけない自分が悲しく恥ずかしく、ため息がでてしまう。でないけど。ため息をつくふりをしてみる。ねむい。しかし特定の人に見えるとわかってる場所にこんなことを書くのはどうなんだろう。

みなさん、そして世界中の野良ねこたち、おやすみなさい。

 

 

🍓

ああどうしてわたしは。 わたしは?

壁際の小さなガラステーブルに置かれたピンクのカーネーションの数輪が茶色く崩れている。あの花はたしか一週間ほど前から飾ってある。数日でボロボロになってしまうお花も多いので、カーネーションは結構持つほうみたいだ。淡くやさしい色。

嘘ではなくて消えやすく頼りないほんとう。

 

今日は母の誕生日だったので、朝起きておめでとうと言って、お昼頃にケーキを買いに行って崩れないように気をつけて持って帰ってきた(気をぬくと物を落とす)。プレゼントは一緒に買いに行くよてい。誕生日後になってしまうけど。

タルトの気分、というのでキルフェボンのタルト。いちご・ラズベリー・ブルーベリー・ブラックカラントなどの赤色が綺麗。丁寧でぴかぴかのケーキって、なんだか特別な日じゃないと食べてはいけないものな気がする。実際だれかの誕生日くらい。でもそんな規則はないので、なんでもない日にもふつうに買えるものなのだった。そういうことって多くないですか。

 

高校生の頃はよく「ショートケーキの上のいちごのような生活がしたい」とわりと本気で思っていた。いまとなってはショートケーキの上のいちごのような生活が、どんなだかあまりはっきりと想像できない。5年前くらいのわたしよ。どんなですか。でもわりと今みたいな生活のことかもしれない。

最近は、完全に自分ひとりで衣食住をチューニング(このことばは『新しい地図の見つけ方』から)したらどういうものになるのか、こわいものみたさで興味がある。堕落していくのか、意外とやれるのか。この他人事感。ケーキの上のいちごはどちらかというと最後に食べる派。

 

MY NAME IS

 

考えていることや考えているふりをしている色々を、はてなブログの編集画面上で文字にしていったら気持ちがすっきりした。気がする。下書きを数日経って見返すと、違うなあ〜と思う部分があるのは不思議だけどそれはそれで。

 

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長い文章をかいてると自分で自分の文章のなかで迷い始めてしまう。’本当’を探り当てようとするとどんどん離れていくきがするし、遊びとして文章を書くのがちょうどいいのかもしれない。どれだけふざけても、その人なりのふざけかたになってしまうものだし。

 

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一番つよく思っているのは、いろんな大事なことに対してめんどうくさがらずに、向き合うことから始めないとなあということです。思っては、いるんです・・・・・・。

 

「よくわからない」

よくわからない、とよく思う。人生において生活において。社会や誰かのことではなく(それらはまずハナからわかり得なくて当然なものだから)、(もしくは私が内向きなつまらない人間だからか)自分のことほどよくわからない、と思う。わたしはほとんどいつも自分の欲求、何がしたいのか、どこへ行きたいのか、とかがぼんやりしている。なのでとりあえずなにかをしたりどこかへ行ってみてから、ああこれは割と好きなんだなとかこれじゃないんだなとわかる。した結果、好きでも嫌いでもないな(よくわからない)と思うことも多い。

気がする。

 

が、「よくわからない」という気持ちは、自分の人生を引き受けたくない気持ちなのかもしれない。「よくわからないままでいたい」。認めたくない、転びたくない、マイクを持ちたくない。醜いかもしれない。醜くても最低限、そんなくだらない保身で人を傷つけることだけはしないようにしたいと思う。心の平穏を保つために自分に対して「よくわからない」を昔から使いすぎてきたのかもしれないけど、よくわからない。

よくわからなくてもいいんじゃないかと思ってしまう。結論はいつも[仮]でしかなくて再検討が永遠に続く。

日本語がわからなくなりたいです。

背中

あなたのことが好き。と何回思っただろう?

早く会いたい。わたしは誰のことも好きにならないし、この世にいる誰のことも好き。

誇張表現だが嘘ではない。

自分の、'自分の外部のものに対する執着心'を自覚するのが耐えがたいほど不快なことに気づいた。わたしは自分の外部の何にも執着していないし、これからもしないし、したくてもできない。安易な錯覚もできない。中空であることで保ってきたから。それはただ、わたしにとって一番信じられるものが神様でもお金でもイデオロギーでもなくて空洞だったというだけ。

 

執着することは愛ではない。

また、人は他者(人間に限らず外部のものや要素のこと)を所有することはできない。認めることが愛だと思う。存在を認めること、自分の外部の(基本的に理解できない)存在だと認めて尊重すること。その人の価値観を尊重して眼差すこと。認めることや尊重することは賛同することではない。もちろん支配することも愛ではない。

(ちなみに、万が一誤読されたら嫌だから書いておくと、ここでいう愛とは性愛やロマンチックラブイデオロギーにおける矮小化された愛(と呼ばれているもの)のことではありません。)

 

世の中を見渡すと(見渡さなくても日々出会う)、勘違いして悲しんでる人が驚くほどおおいなあと思ってしまう。みんな自分をもっと自由にしたらいいのにと思う。(もちろんひとつのただしさなんてないから、わたしにとって勘違いに見えるというだけだが。)他者と関わって生きながらなるべく幸せになるためには、他者を他者として(支配することも、支配されることもできないものとして)受け入れることから始めるしかないんだと思う。そしてその考え方は自由につながることだとおもう。