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うみべのまち ver.1.2

言語化と、方向付けのためのログ

某Pの風貌が好みです

雑感

この前聞いたラジオ ”文化系トークラジオLife” のいつかの回(放送後記?)で黒幕Pが言っていた、「イベントとか仕事とか後から思い出した時に楽しむため、思い出づくりのために全部やってんだよなー」というのがすごいわかった。正確にいうと、前までわたしもそうだった。

 

わたしが高校生のころ、スクールバッグにデカめのクマのぬいぐるみを一時期つけていたこととかわりと派手な色のカーディガンを着ていたこととか、授業さぼって友だちとアイス買いに行って食べたり、または一人でさぼってぶらぶらしてたりしたのは、そのときそうしたかった、のと同じくらいかそれ以上に「いつかこうしたこと思い出すんだろうな」って気持ちがあったから。遠い気持ちになる。(想像上の)未来から今を照射すると、今はめちゃくちゃ煌めいて儚くて一回きりの美しいものに感じられるから。

 

垂直的な時間モデルのなかで、”もう二度と戻らない時間”というのはどうしたって甘美に感じられる。退屈と一瞬ときらめき。でも最近わたしは、そういうのって20世紀的だなーって思う。20世紀というのはたとえで、前時代的(わたしのなかで)と感じる。ツリー的な価値観。ドゥルーズ的に世界を捉えるようになってしまったので、もうリゾーム的な考え方を支持せざるをえない、切なさや苦しさによる照射ではないきらめきや喜びや生。そっちのほうが強度があるし素敵だと思う。

(ちなみに、わたしのドゥルーズ理解が正しくない可能性は70%くらいです。一般的に・みんなにとってのドゥルーズとは違うかもしれないけど、今の所”わたしの”ドゥルーズはそういう感じで理解しています。(でもぶっちゃけそんなに間違ってないという実感がわりとある))

 

だから今は、垂直じゃなくて(あ、これなんていうんだっけ?、リニア的?わからん。まあいいや。)パラレルというかリゾームな感覚で生きているんだけど、だいぶいいですよ。以前ほどシリアス(ふうのカオをして)憂鬱に浸ることがまじでほぼなくなりました。以前は、「憂鬱に沈まなくなったら生きやすいけどさみしいだろうなー」って思ってた。結果、べつにさみしくないです。たのしいです。さみしいときももちろんあるけどね。人生のいっちばんのベースが生の肯定になったので。かなしいことはもちろん生活のなかに発生するけど、生の肯定のうえで悲しい、というかんじなので、いいです。

わざわざ(想像上の)未来から今を照射しなくても、今はきらめいていたりきらめいていなかったりして、そのこと自体がほんとはささやかにきらめいていて、祝福的だとわたしには感じられる、って話でした。

 

まあ、今も無機物になりたい欲みたいなものはあるけど、だいぶさらっとした欲求です。”わたし”が自死したい、みたいなのじゃなくて、単に有機物だから無機物になってみたいな程度の欲求で、ウエッティじゃないので疲れないし、楽です。

ブログがつづかない理由

雑感

さっき最新記事をちらりとみて、ブログが続かない理由にきづいた。「なんか良いこと書こう」と少なからず思っているからですね。いや、思考の整理にも方向付けにもならない愚痴や不満なからっぽの文章を書くよりは、「なんか良いっぽいこと」を書く方がいいのかもしれないけど、わたしの「良いっぽい」というのはモロに他者の視線を気にしている。言い換えれば、思ったことというより「人に読まれてもまあ激しい批判は受けないっぽいと踏んだこと」に調整して書いてる節がある。誰も読んでないのに。それじゃあ発信する意味、文章をつなげていく意味がない。

わたしは手帳や日記にさえ、感じたことを赤裸々に書けない人間です。大事なことであればあるほど書けない、誰かに見られたらという気持ちがどうしても強くこころにある。そのぶんネット上の文章はわたしの顔(からだ)とは結びついていないのでわりとほんとうのことを書くハードルが下がる。

そう、もっと素直に書こう。しかし文体というのは大きいな。文章を打ち込むときはいつも、文体に書かされている気になる。文章に内容なんてなくて、文体しか存在しないのではないかと思えてならない。文体が勝手に文体の行きたい方向へ進んでいき、わたしはいつも置き去りにされた気分になる。けれども”言いたいこと”なんてあっただろうか、欲望が貨幣を求めるのではなくて貨幣が欲望を生み出すように、文体が内容に先行する気がする。文体を鍛錬していきたい。量でしょうか。

 

土地

そういえば、先月の終わり頃、5歳まで住んで居た土地に家族で行った。といっても今住んでいるところから電車で1時間半、車で1時間ほどのところ。大人になった今では行こうと思えばいつでもいける距離だけど、たまに思い出すくらいであの辺りにはずっと行ってなかった。特に用事もないし。

変わった場所ではなく、田舎でも都会でもないどこにでもある住宅街。でも空気がなんだか懐かしい気がしてしまう。5歳のときまで見ていた町の景色。家からあの公園までこんなに近かったっけ?とか、あの神社こんなに狭かったっけ?とか、記憶のなかと現実の縮尺が合わなくて不思議な感じだ。

保育園の送り迎えのときに毎日車で曲がった竹やぶのコーナーの緑が、大幅に減っててすこしせつなくなる。一角に群青した竹やぶから漏れてくる陽のひかりが好きだった。

人間には生まれた土地の水がずっと流れている、というどこかで読んだ言葉を思い出す。感覚的にはわかる気がする。物質としての水というより、自分のなかの深い水脈をめぐっている何かとして。

 

ただ1日を毎日生きただけで、もうこんなとこまで来たんだなあ。いま22歳。たしかにこの地にいたのであろう5歳の時の私。人生はたしかに流れているんだなあと当たり前のことをぼんやり思う。これからもすごいはやさで流れていくんだろう。40歳とか、60歳とかになったときに、今と同じように振り返って22歳のことを思い出すように。

なんだか取り返しのつかないものをこぼしながら、きらめかせながら歩いていくようで、すこし気が遠くなる。振り返ればいつもせつなくていとおしいけど、生とはそういうふうに眺めるものではないとわかってしまったので、自分の体がうごかせることや好きな場所へ行けること、自分の人生を自分が生きられることがうれしいし楽しいなとおもう。せっかくなので、精一杯手足をのばしたりして死ぬまで生きたい。

枕元で

雑感

1時間ほど前に帰宅して、めんどくさい化粧落としもすべて終えて今は布団の中にいる。あとは寝るだけだ。なんだかとても疲れた。

眠りに落ちるまでの、なにもせずなにも考えない贅沢な時間が好きだ。意識はうすぼんやりとあるまま、眠りをただ待つことに全身をゆだねているひととき。しかし、くさい。私の髪がくさい。髪からピンクのダウニーの匂いがする。耐え難く不愉快な匂いだ。わたしは芳香剤の香りがとても苦手なのだ。生花、アロマオイルなどの天然香料は好きなのに、人工的な香料が苦手で嫌いだなんて市販の柔軟剤を使っているひとびとにはとても言えない。鼻につく女だと思われて村八分にされてしまう。ここは都会だけど。ダウニー、そう、諸事情があり、わたしは今日バイト先で何度もピンクのダウニーの消臭スプレーを噴射したのだった。バイトの日は大抵こんなんだ。今からシャワーを浴びるのは不可能なので、どうにか我慢して、このまま寝るしかない。吐きそうだ。眠い。上手く纏めたかったのにだめだ眠い寝ます。おやすみなさい

継続

雑感

前回記事をアップロードしてから約2ヶ月経っている。

毎晩、もう寝ようとおもって布団に入ると「なにか言語化しなければ」という気持ちが突如わき起こる。しかし布団に抗うこともできず、そのまま毎晩眠りに落ちる日々をこの2ヶ月続けていたので、今日こそは、と思って夕方の時間にはてなブログを開いてみた。

書きたいことがあるわけでもないのに。何を書けばいいんだろう。

そういえば、昔から何かを続けるということができない。

習い事、学童、部活、アルバイト、大学(義務教育は完走した)。振り返ってみると、長年続けてる趣味とかは一つもない。生きていることくらいだ。自分がつまらない人間に思えてすこし沈鬱になるけど、まあいいや。つらい思春期を生き抜くためにわたしはなんでも「まあいいか」と思う技を身につけたのであった。それが良いか悪いかはわからんし、どっちでもよい。わたしにとっては。

そういえば、この間「5年ダイアリー」なるものをいただいた。貰った当初は割と1日1回開くようにしていたけれど最近完全に失念していた代物だ。しかし何を書けばいいんだよ。長くて、一瞬のように過ぎ去っていくであろうこれからの5年間のことをおもうと空恐ろしくなる。恐ろしいぞ。

文章にするなら、1日を振り返るよりは明日どうする、とかこれからどうしたい、というのを書くほうが人生に有効だとおもうので、あの赤いダイアリーをそうやって使うべき。べきなのだけど。なんて不快な作業だ。不快で、人生にとって重要な意味のある作業だ。未来を考えることから逃げないほうがいい、というか逃げない自分でいたいのに。いたい。なるべく未来を祝福したい。

 

*久々にエッセイとかを読んでいる。さっきまで穂村弘の『世界音痴』を読んでいた。なんかこれ前にも読んだ気がするな。併読で東直子さんの『七つ水、二つ窓』も読んでいる。

10/11

雑感

なんか夜になるとくしゃみが止まらない。7連発くらい出る。秋の花粉症? ティッシュで鼻かみすぎて鼻が痛い。鼻なくなりそう。

 

最近思うのは、「悩むべき問題」ってなくて、考える問題と考えても決まらない問題があるだけだなってこと。考えて、結論は出てるけど諸々の理由でやりたくないことというのもありますが、その結論が正しいことが自明ならそれは自分を鼓舞してがんばるしかないですね、それが苦手なんですが…。

 

あと、自分を好きになる努力ってやっぱするべきだなと思っている。「するべき」という言い方になるのはわたしの腰が重い(エンジンがかかりにくい)人間だから。見たい景色をみるためには道のりをあるくのが面倒でも、あるけば何かしら今とは違うものが見えるとわかっているなら一歩めは強制的にでも踏み出したほうがいいんだよね〜って。自分を好きになるための努力が苦役ということではなく、それ自体は楽しいことなんだけど、最初の一歩が怖いとか億劫とかでためらってるなら今すぐするべきだ、っていうねー。わかってるけどなかなかできてない。わかってるはずなのに。くそ。怪我なんてしないのに。

 

わりと2年前くらいは自分のなかで「ありのままを受け入れよう」ブームがきていたんだけど、やっぱそれはもうつまんないなというか、それじゃだめじゃんって感じが今はする。当時は根本のところの(存在レベルでの)自己肯定がしたかったんだろうね。ていうか何もしないような状態でありのままの自分が発現するわけないよね。進むなかでこれはちがうとか、これだとか感じていくものなんだとおもう。だからやっぱり動かないといけない。たのしみながら。

 

頑張ってる自分のこをと好きになりたいなあ。頑張ってる自分をみてみたい。頑張ってるっていうのは我慢してやりたくないことをやるということではなくて、面倒だったり失敗するかもでこわくてもやりたいことをやるということ。安易な自己啓発みたいなのはいちっばん嫌いなんだけど、最近そうだな。性格がひねくれてるので正面から向き合ってこなかったけど、一周回って正面から堂々と手を打っていきたい感じがしてる。できるか?したいな。したい。

退学

今日ついに退学届けを提出してきた。3年次の後期が始まるところだった。必修落としながらもなんとか2年次の冬休みまでは持ちこたえたものの、興味のもてない勉強と友達もいない大学生活が本格的につらくなり、(退学は怖かったから)とりあえず1年間休学した。休学期間が終わると迷いつつも(退学は怖かったから)復学を決め、残り2年なんとかがんばるかと思ってたけど、やっぱりこれはもう無理だと思ったのでやめてきました。通学すること、出席すること、課題をすること、発表することができなくなってしまった。かろうじて守っていた最低限のラインまでも頑張れなくなった。正確に言うなら、大学卒業しなくてもいいやと思うようになっていた。

 

うちはお金がないので、わたしは学費や生活費をバイトで補いながら通っていた。もし1年でも留年したらその学費は払えず卒業できない。しかしこのままだと4年で卒業できる可能性は低い。4年で卒業できたとして、そこまでのコストをペイするためにはなるべく良い企業に勤めたいと思うはずだ。大卒切符を最大限に使って。しかしわたしは22年生きてきてわかったんだけど大きい組織とか無理なんすよ。まあそれ以前に、体力的に週5で労働できるのか?という疑問があるレベルの人間なんですよ私。大卒関係ない働きかたをするならこんなにつらくなりながらとらなくてもいいじゃんって思った。負債を増やさずに、あんまり死にたいとか思わないように働きたいと思った。それに中退という世間にとって一般的ではない選択をしても、もともと中学校からマイノリティ的マインドでずっと生きてきた自分にはそっちのほうが合ってる気もした。

 

支払った学費がもったいないとか、潰しがきくように大卒とっといたほうがいいとか、もちろんそれが普通にできるひとはそうしたほうが誰からも非難されないしいいのかもしれない。しかしそんな人ばかりじゃないのだ。そして何を選んでも、その人生を生きるのは自分なのだ。とりあえず辞めても死にはしない。そういうふうに思えるようになって、退学も徐々に考えるようになっていたし、こういう選択になった。でも大学では恩師に出会えたので、それだけで私としては高いお金払って大学に入ってよかったと思っている。

高校のときにまともに自分の将来と向きあわず「とりあえず大学行っとくか」で興味もない学部に入ったのがまあ結構あれだったんだよね(おかげで恩師に出会えたわけだけど)。そう考えるとまじめに自分の人生の進路を考えて決断したのって今回が初めてかもしれない。いろんなひとが世の中にはいますね。