うみべのまち ver.1.2

言語化と、方向付けのためのログ

茶トラ、白、三毛

今日は道端で野良ねこを3匹みた。

 

わたしはねこをかぶるほうだ。対人において、それこそ3重くらいにはねこをかぶっているのではないかと思う。しかし。みなさん。かぶっているねこをひとつずつはずしていったとして、そこには何が残るとおもいますか。自己なんてあるのでしょうか? わたしはないと思う。というのはさすがに言い過ぎだが。自己なんて、輪郭のない靄のような、角度によって何色にもなり、刻々とかたちの変わるもののように感じる。

そして、ねこのかぶり方や、かぶっている猫の毛の色とか、大きさとかかたちとかはどうしても人それぞれ違いがある。どうしたって出てしまう差異。逆説的に、そここそ自己の立派な一部であるように感じられる。ので、ねこかぶり問題はそんなにたいした問題ではない(と今のところ思っている)。

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 

 

対人においての悩みとしてはそれよりも、その場しのぎというか、一時的で浅いつながり方しかやってこなかったのを悔やんでいる(悔やんでいるとか言いつつ、時間が戻せてもやり直さないと思うが)。本当にダメなところだと思う(本当にダメなところだと思う)。浅くて薄いつながりしか結んでこなかった理由はきっとひとつしかなくて、そっちのほうが楽だから。でも、いくら臆病で面倒くさがりだからって、我ながら人としてどうなんだと思う気持ちがなくもない。そのくらいのわずかな客観性は残念なことに持ち合わせていた。いまや完全にその浅め・薄めのコミュニケーションの型が染み付いてしまってるので、人とちゃんと仲良くなれるのかなあと思ったりする。ちゃんと仲良くなりたいなって人が人生にあらわれたときに、思うこと。そんなに初歩的なところから向き合わないといけない自分が悲しく恥ずかしく、ため息がでてしまう。でないけど。ため息をつくふりをしてみる。ねむい。しかし特定の人に見えるとわかってる場所にこんなことを書くのはどうなんだろう。

みなさん、そして世界中の野良ねこたち、おやすみなさい。